谷戸(ヤト)城
訪問 2012年 8月
連続で山梨の城郭を紹介したいと思います。
谷戸城は 以前からブログで交友させて頂いている「にすけ」さんの訪城記事で知りまして、山梨に行く機会があれば是非とも訪城したいと思っていた城郭の一つでした。
何故外せないかと言いますと・・・縄張り、つまり城郭の構成が かなり変わった造りなんです。
併設されている ふるさと歴史館
この時は丁度お盆休みで休館でした・・模型見たかった。
車はここの駐車場に停めさせて貰いました。
先程、やや高原地帯と書いたのは この辺り稲作が盛んなようでして、谷戸城も田んぼに囲まれているからです。
水に恵まれているんでしょうね。
現地縄張り図を掲載
先ほどの画像は 歴史館右手のPから撮影。
史跡谷戸城は、平安末期に逸見清光(1110~1168)が築城したと伝えられている。
逸見の地を本拠として清光は多くの男子に恵まれ、その子らが甲斐国内で勢力を扶植した事から、次の台では甲斐国の広い範囲を甲斐源氏が支配することとなった。
なかでも武田信義は平家討伐に功を上げ、後に戦国大名となる武田家の基礎を築いた。
城は流れ山と呼ばれる小山を利用して築かれており、北に巡らせた横堀と西側を流れる西衣川で区画している。
城内は山頂部の一の廓を中心に、二の廓から五の廓までを同心円状に配し、西側の山裾には館が置かれていたと想定される六の廓が広がる。
各廓の出入り口は喰いちがい虎口が多用され、空堀は等高線に沿うように掘る横堀が発達している。
発掘調査による出土品は14~16世紀のものが中心を占め、現代に伝わらなかった歴史を持つ城址であることが解ってきている。
現地案内板より抜粋
歴史館のある谷戸城北側から 「北帯廓」を進み「5廓」方面を目指します。
土塁は残ってますが、かなり風化が進んでいるようです。
北側は全体的に緩勾配の斜面です。
「5廓」内部の様子
平坦ではありません。 廓周囲に土塁を巡らしてあった様な痕跡も見られませんでした。
「5廓」から「2郭」北側の帯廓に移動します。 左手は2郭の土塁です。
この辺りからの土塁は復元土塁になってました。
土塁線に「2郭」への虎口が見えてきました
先ほどの虎口を登って「2郭」内部を撮影。
これが見たかった構造を持つ空堀です。
どういった運用がなされいたのかが非常に気になりました。
余り普及していない構造なので、 使い勝手は良くなかったのでしょうか。
そして、もうひとつ変わった構造を持つのが、先ほどの虎口から撮影したこの本郭。
それ程広くない「2廓」中央部に土塁だけを掻き揚げて構築されています。
本郭内部の様子。
記憶が不確かですが直径でせいぜい30メートル程度だったと記憶してます。
「2郭」との平場の高低差はありませんでした。
別の角度から本郭を撮影。
パーテーションの様なこの土塁を頼りに本郭に籠っても、余り意味がなさそうですし、
勝手な想像ですが、これは遮断する土塁ではなく射撃用の塁線だったのではないでしょうか?
「2郭」から南の帯廓方面へ降ります。
案内板の解説ではないですが、緩斜面の等高線に沿って帯状の細い平坦地(帯廓)が巡らされています。
これがないと 麓から「2郭」土塁真下まで一気に駆け上がられてしまいそうでした。
縦堀?らしき痕跡もありました。
縄張り図 左下の搦め手虎口付近と記憶。
この辺りも谷戸城の一部だったろうと勝手に思って撮影。
右手が谷戸城・左手奥が旧居館跡と説明されている「6廓」跡。
今は民家が建っており撮影は遠慮してます。
同じ場所から谷戸側を見上げて撮影。
帯廓が斜面途中に巡らされているのが解ると思います。
新府城そっくりと思ったのはここでした。
谷戸城の評価は 4 とさせて下さい
併設された歴史館にはより詳しい説明があるのかも知れませんが、 城内要所要所には必ず発掘調査に基づく説明があり、非常に親切。
また夏の真っ盛りにも関わらず草刈りも行き届いておりました。 頭が下がります。
遺構自体も後世の破壊や開発から逃れているようですし、 何より土塁空堀の特異な組み合わせが解り易く復元されている点が素晴しいです。