ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

上原城 (長野県 茅野市)

 
訪城 2012年8月
 
 谷戸城を後にして訪れたのが 初の長野県城郭となる上原城でした。
上原城は、諏訪地方を勢力下に収めていた諏訪氏の居城で、山の中腹に築かれた山城部と、麓に近い緩斜面に居館部を併せ持つ構造になっていました。
 
 諏訪氏信濃の有力国人衆でありながらも 諏訪神社の神主のような事も代々していたり、 少し変わった経歴を持っていたりします。
 
 
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                                        上原城三廓より臨む諏訪盆地の眺め
 
真夏の山城は本来ならば藪がぼうぼうや、藪蚊の大軍等決して適した時期ではありませんが、この辺りは幸いにも標高が高く(麓で700メートル以上)、関東地方の山城よりは幾分、廻り易く感じました。
 ちなみに茅野市役所は日本で一番標高が高い市役所だったと記憶しております。
 
 

 
 
場所はこの地図の辺り・・
 巨大な「上原城」の看板が、 山の中腹にありますので だいたいの場所は下からでもすぐに解ります。
 でも 入口がちょっと解りにくいので、少し解説します。
 
 バイパスではない国道20号沿いに頼岳寺の案内板がありますので、それに従って路地を進むと、お寺の手前辺りから上原城の案内板が現れます。
 それに従い林道を暫く登ると 上原城の巨大な石碑が見えてきます。
 そこは、麓の居館部の上端部に当たる場所です。
 
 
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 こんな石碑です。
 お盆中だからか丁度同じ城好きの方がちらほらといらっしゃいました。
 
 山城で同じ趣味の人と遭遇するなどかなり珍しいのですが・・。
 
 
 
 
 
 
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 石碑は現在地という辺りです。 平時の居館跡の上端部です。
 
館跡に注釈で 板垣平と追記されてますが、これは諏訪郡代として派遣された板垣信方の館に由来します。
 
 ここで 現地案内板を抜粋します
上原城は諏訪盆地を一望する金毘羅山頂(方向978m)にある。 ※比高は200位?
 遺構としては主廓・土塁・二廓・三廓・物見岩等あり、 中腹の小字板垣平(凡そ1ha)には居館跡がある。
 北は永明寺山を背に、北西に桑原城、東に鬼場城等を控え、前方南には上川や宮川を隔てて干沢城に対し、諏訪上社を見下ろした中世の典型的な山城である。
     -中略-
 文正元年(1466)頃より、諏訪惣領家当主信満がこの城の中腹に城を構え、上原郷に城下町を造った。
     -中略-
 その後 5代70年余に渡り諏訪地方を統治したが、天文11年(1542)7月、甲斐の武田晴信によって滅ぼされ、惣領家諏訪氏は滅亡した。
  ※諏訪氏には
   惣領家→政事
   大祝家→司祭     という分裂の時代があったそうです。
        -中略-
 以降、上原城とその館は武田氏の諏訪地方当地と信濃攻略の基地として、天正10年(1582)武田氏の滅亡まで約40年間続いた。
              ※はこちらで勝手につけた説明です
 

 

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ここで、耕作地化された居館跡をみて、車で林道を登れば、最も標高の高い城郭部搦め手まで一気に辿りつけます・・・が、
 
 
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 真夏だと言うのに、敢えて山道を徒歩で登る過酷な選択をしました。
案内図にある点線道です。  鳥居をくぐり かまど石の真下に出れるルートになります。
 
 
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鳥居から先は 凄まじい急斜面でした。 城郭部まで徒歩15分位でした。
 
 
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途中の尾根沿いには 削平地が幾段か確認出来ました。
 
 
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  もうひとつの現地縄張り図を掲載します。
 先ほどの削平地は3郭南東の腰廓だと思います。 
 
 
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3郭手前で道が分かれていたので 3郭に登らずに 先の縄張り図で「2の廓」の文字付近の等高線に沿って北上します。 (縄張り図にこの道記はされていないのです)
 丁度2郭の東側真下になります。
 
 
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暫く歩くと遺構らしき怪しげな地形がありました。
 右端の斜面上が2郭、右手の道が2郭真下に沿って伸びる山道です。
 左端は谷筋に落ち込む地形ですが、 ちょっと写真だと解りにくいのですが、谷筋から登るルートが土塁らしき地形と大きめの石によってL字に折れて虎口を形成しています。
 
 
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もっと解りにくい画像ですが、明らかに人為的に改変された地形でした。
 
 
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道は更に北に延びて 堀底らしき谷底に続いています。 この辺りで道は完全に途切れてしまいました。
 竪堀だったんでしょうか、ここはなかなかの急勾配でしたが強引に登攀。
 
 
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登り切ると遊歩道に無事出られました。 左手の谷底が先ほどの竪堀らしき? 道です。
 
 
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出たのは ここ搦め手側の駐車場前でした。
 看板裏の小山は はなれ山とある小廓です。
 ここまで車で行けるので大汗かいてまで登る必要はなかったのですが・・変な達成感はありました(笑)
 
 
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改めて、城郭部を見て廻る事にします。
 この先、音叉の様な形をした松の木の手前には 離れ山と 本郭を分ける堀切りがあります。
 
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勾配はともかく かなり大規模な堀切りです。
 法面に大きな岩がゴロゴロあるのが 印象的でした。
 
 
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ひっそり佇む石仏が多数。
 本郭を囲むように並んでいました。 
 
 
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少しかっこつけた写真も撮りました・・ので一応掲載します。
 それにしても上原城は大変眺めが良い立地です。
 
 
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本郭に登ります。 
 
 
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本郭内部は平坦化されていますが いかにも狭い印象。
 周囲に土塁を巡らしていなかった様に記憶してます。
 
 
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本郭から2郭または
腰廓を撮影。
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
 
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本郭から はなれ山を撮影。 手前は先ほど掲載の堀切り。
 廓と呼ばずに山と形容するだけあって、ほぼ自然地形のままです。
 
 
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本郭南側の腰廓の様子。
 
 
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本郭より南西側に延びる尾根筋の廓は現在墓地になっていました。
 大石がゴロゴロと石垣の様にあります。
 
 
 
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3郭南東側にある金毘羅神社
 案内板によると、 麓にある頼岳寺が1805年に讃岐より勧進して祀ったものだそうです。
 上原城の碑もあります。
 
 
 
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金毘羅神社からの眺めは素晴しく、領内を一望出来たでしょうね。
 
 
 
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神社真後ろの巨石、物見石・・物見岩 縄張り図よって違うのですが・・どっちなんでしょうか?
 
 
 
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結局最後に辿りついた かまど石。
 3郭の下にあります。  岩の開口部は人が入れる程の大きさがあります。
 
 

 
 上原城の評価は 3、5 とさせて下さい。
 
案内板や現地縄張り図等は大変充実してました。 更に駐車場あり、搦め手側にはトイレもありと大変親切。
 夏場でも それ程藪蚊に悩まされない整備状況も高評価です。
縄張り自体と城の規模は、落城年と諏訪氏の規模からして、比較的コンパクトにまとまっている印象です。