ちょっと山城に (正規運用版)

ヤフーブログからの避難民です

島崎城 (茨城県 潮来市)2

では島崎城1 の続きと参ります。

 

 

が、

 前回島崎城の歴史については全く触れておらず、ここで城主島崎氏を含めた説明を現地パンフレットの内容を抜粋の形で紹介します。

 

 

島崎氏歴史概要

 

 

 

 島崎城は、常陸大掾氏の庶流で行方氏の一族、島崎氏の居城である。

 

 

鎌倉初期に行方氏の祖、行方宗幹の次男高幹島崎に分封されて島崎氏を称した。

 

 しかし島崎城の築城時期は明確ではなく、一説には応永年間(1394~1426年)、11代成幹の時に築かれたとも言われる。

 

 

 尚、宗幹長男為幹行方氏の惣領を継ぎ、後に小高へ移住して小高氏となり、

三男家幹は麻生に分封され麻生氏となり、四男幹政は玉造に分封され玉造氏となった。

 

 

 この四家は、行方地方に勢力を持った行方氏一族の中心的地位を占め、「行方四頭」と称された。

 

 当初四頭は、小高氏を惣領とし、島崎・麻生・玉造の3氏が惣領を支援する形で結合していた。

 

 しかし、時代が下ると一族相争うようになり、後には島崎氏が最大の勢力となった。

 

 

 

 ー中略ー

 

 

 戦国時代になると島崎氏は積極的な外征を行って勢力を拡大した。

 

 

 14代忠幹(安国)は、1522年には同族の長山城長山幹綱を攻め滅ぼし、1523年の鹿島氏内訌に乗じて鹿島城を攻め、1537年には同族の玉造宋幹を攻めた。

 

 

 1584年には島崎義幹麻生城麻生生之幹を攻め滅ぼすなど、4万5千石を領して鹿島・行方両郡に割拠する国人領主で筆頭の地位を得た。 

 

 

 戦国後期には、勢力を拡大する佐竹氏にも従うようになり、1584年の沼尻合戦などにも佐竹氏の一翼を担って参陣した。

 

 

 

 しかし、1590年の小田原の役後、佐竹氏豊臣秀吉から常陸1国を安堵されると、

 翌91年には佐竹義宣は、鹿島・玉造・行方・手賀・島崎・烟田などの鹿行地域各氏に対し、

 新しい知行割をするという名目で居城の常陸太田城に招き

 参集した島崎義幹・徳一丸父子ら15名は酒宴の中、一挙に惨殺されたという。

 

 

 

 直ちに佐竹氏は軍勢を鹿行地域に進撃させ、城主不在となった南方三十三館を悉く攻め落とした。

 

 

 いわゆる「三十三館の仕置き」島崎氏佐竹氏の軍勢に攻められ、城主なき城は間もなく落城し、以降廃城となった

 

 

 

 最後に佐竹氏黒歴史的な国人領主粛清事件で島崎城の歴史は終わりを迎えます。

 

 苛烈な戦国時代でもあまり耳にしない辛酸な陰謀ですが、もともと独立色の強い国人領主達が相手となれば、統治に不満を抱えて反乱でも起こされかねない。

 

 佐竹氏からは厄介な連中と思われていたのかもしれないですね。

 

 

 

さて、続きです。 

現地案内図からの

 

今回 島崎城2 のルートは黄色線です。

今回は、Ⅲ廓外縁部の空堀めぐりに絞った紹介です。

 ぐるっと廻って2重空堀の外側の薬研堀を辿ってⅢ廓前のルート分岐点に戻ります。

 

 

  島崎城、見どころは多岐に渡るとはいえ、

 

ここ Ⅲ廓空堀があまりにも傑出しているため、今回はほぼ空堀紹介編となります。

 

 

では標識に従って堀底に降りてみましょう。

 

 

堀底は薄暗い竹林になっています。

 両側は垂直と表現していいほどに切り立っているので、切り通しの道に降りたようです。

 

 薄暗さと竹藪、

これはもう

暖かい季節には「やぶ蚊地獄」になるパターンですねきっと。

 

堀底から撮影。

 適度な間隔で「折れ」が設けられているのであまり先の様子は見えません。

 

外廓側に一旦出ます。

 私有地ですね、再び戻ります。

 

 堀底には、畝堀の痕跡か、畝状の凹凸が確認できます。

 

堀底を辿ります。

 垂直な壁が迫った細い通路を進んでいるような圧迫感・閉塞感を覚えます。

 

 

 堀幅はさほど広いとは言えないのですが、これほど急角度で掘れるもんですかね・・

でもちょっと写真が暗くで分かりにくいので

 

 同じ位置でフラッシュを焚いて撮影。

画像奥で空堀はL字に折れているので先は見通せません。 

 

しばらく同じ空堀の写真が続きます。

 

島崎城に訪問されたなら、このⅢ廓空堀は必見です。   

 

 

ジグザグに折れてなおも続きます。

 

弧を描きながら岩盤を開削してます。

 

堆積岩かな? 

 削り込んだ跡のような痕跡もあります。

 

これはもう 

 

岩盤空堀 

と呼んでいいでしょう。

 岩盤を開削し普請された空堀の圧倒的な迫力。

 

かなり進んできました。

Ⅲ廓側を見合上げて撮影したところ。

 この辺りは元の地形の比高さもあってⅢ廓は頭上の遥か上にあります。

 

こんなマイナー箇所まで「切岸」の案内板が設置されてます。

 

分岐点の案内が現れたので、振り返って案内板を撮影。

 画像左手奥が岩盤空堀へのルート。

右手は下って城外方向。 左手(画像外)はあとで通ります。

 

一旦右側のルートを下って城外に出たところ。

 

 

左手の鳥居のあたりから登れます。

 鳥居の真上にも段廓状の地形が確認できました。

島崎城の搦め手口ですかね?

 

分岐点まで再び戻りました。

 正面に見える割れ目は、先の左手ルートとなる、薬研堀です。

 

堀底を辿ります。

 この堀のV字の角度、凄まじいです。

 

 

 登り切った先は、島崎城1 で紹介したⅢ廓手前の分岐点でした。

 つまりこの薬研堀は、Ⅲ廓東Ⅱ廓を隔てる2重空堀の外側の1本。

 

 

 

島崎城3 に続きます。